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1日本@名無史さん2019/06/17(月) 14:00:09.79

2日本@名無史さん2019/06/17(月) 15:21:15.94
奈良「法隆寺」の本社は、ここ徳島市 救世山峯薬師  「法谷寺」

http://goutara.blogspot.com/2011/10/blog-post_29.html

3日本@名無史さん2019/06/17(月) 16:25:01.97
魏志倭人伝にある「橘」。  これ一つとっても、北部九州・畿内が該当しないのが分かる。

4日本@名無史さん2019/06/17(月) 16:35:51.97
「若杉山遺跡(阿南)坑道発見」

「辰砂採掘 弥生後期 日本最古か」

5日本@名無史さん2019/06/17(月) 16:49:21.94
阿南市と徳島県教委は、弥生時代後期から古墳時代初頭にかけ、赤色顔料「水銀朱」の原料となる辰砂が採掘されていた若杉山遺跡(同市水井町)で、

辰砂を採掘していた坑道が見つかったと発表した。

6日本@名無史さん2019/06/17(月) 18:02:44.51
これまでは露天掘りなどの手法が取られていたとみられており、 より高い技術が必要な坑道で採掘されていたことは分かっていなかった。

日本最古の坑道の可能性があり、今後、詳しく調べる。

7日本@名無史さん2019/06/17(月) 18:58:01.54
遺跡は、太龍寺山(標高618m)の標高約140〜250mの地点の斜面にあり、坑道は約250mの地点で見つかった。

奥行きは約14m、高さは約70〜90cmある。

8日本@名無史さん2019/06/17(月) 19:32:59.53
阿南市が国史跡指定に向けて昨年8月から行った調査では、入り口付近から辰砂の原石が22点、石杵が10点、内部から石杵が12点見つかった。

このため、辰砂の鉱脈を含む岩を横穴式に掘り進んだ坑道だと断定した。

9日本@名無史さん2019/06/17(月) 19:50:47.21
入り口から約50m離れた斜面では、掘削する際に出たがれきなどが捨てられた「ズリ場」も確認された。

その付近で弥生土器の破片が発見されており、坑道も弥生時代に使われていた可能性があると判断した。

10日本@名無史さん2019/06/17(月) 20:57:46.07
阿南市などは来年度以降、坑道内部の調査を本格化させ、時代の特定につながる土器などを探す。付近で他の坑道の有無も調べる。

現在、日本最古の坑道は奈良時代に銅を採掘していた長登銅山(山口県美祢市)とされている。

11日本@名無史さん2019/06/17(月) 21:17:49.87
若杉山遺跡調査検討委員会の大久保徹也・徳島文理大学教授(考古学)は「この時期は、むき出しの岩を石杵で砕くなどして辰砂を採掘していたと考えられていたため、

これまでの考え方を覆すかもしれない」と指摘している。  徳島新聞 平成30年2月1日

12日本@名無史さん2019/06/17(月) 21:53:22.01
男弟とは「月読尊」

卑弥弓呼とは「素戔嗚尊」

卑弥呼とは「天照大御神=大宜都比売」

の3兄弟。  

これが魏志倭人伝と記紀との整合性。  

13日本@名無史さん2019/06/17(月) 22:27:55.09
「天照大御神=大宜都比売」と「月読尊」は邪馬台国(北の粟国)側

「素戔嗚尊」は狗奴国(南の長国)側   

14日本@名無史さん2019/06/18(火) 07:38:41.09
「板野命婦」(いたののみょうぶ)

生年:生没年不詳

奈良時代の女官。  粟凡直国造若子とも。  外従五位下。  藤原房前の7男楓麻呂を出産。

15日本@名無史さん2019/06/18(火) 07:55:55.63
阿波国板野郡貢上の采女で、光明皇后の御所に仕え、写経事業のための経典貸借などの責任者として活躍し、

造東大寺司との連絡係などを務めた。 出家し、尼となった。  <参考文献>『正倉院文書』、「板野命婦」(『角田文衛著作集』5巻)

16日本@名無史さん2019/06/18(火) 08:08:17.30
「板野命婦」も奈良遷都に伴い、天皇家に付き従い、阿波国板野郡から奈良の都へ移住したとみられる。

17日本@名無史さん2019/06/18(火) 11:01:28.89
魏志倭人伝は、倭国(阿波)の自然・風習を記録したもの。  

例えば「橘」も「楠」も、温暖な倭国(阿波)に自生する。

同様に、非常に貴重な「丹」も倭国(阿波)でのみ、採掘していたということ。

18日本@名無史さん2019/06/18(火) 12:06:30.56
第34代舒明天皇は、四国道後温泉と播磨有馬温泉。  

第35代斉明天皇も、四国道後温泉と紀州白浜温泉の両方に行幸している。

19日本@名無史さん2019/06/18(火) 12:55:30.53
しかし、それ以前の天皇は、四国道後温泉だけしか行幸していない。

このことから、第34代舒明天皇の御代頃から 、倭国(阿波)から奈良大和への王都進出の関心が高まったとみられる。

20日本@名無史さん2019/06/18(火) 18:58:58.64
四国の道後温泉への天皇の行幸:第12代景行天皇から。

播磨有馬温泉への天皇の行幸:第34代舒明天皇から。

南紀白浜温泉への天皇の行幸:第35代斉明天皇から。

21日本@名無史さん2019/06/18(火) 19:30:25.19
道後温泉、有馬温泉、白浜温泉
いつから開業してるのよ?

22日本@名無史さん2019/06/18(火) 20:01:25.53
>>21

四国の道後温泉:第12代景行天皇から。

播磨有馬温泉:第34代舒明天皇から。

南紀白浜温泉:第35代斉明天皇から。

23日本@名無史さん2019/06/18(火) 20:42:45.79
なんで四国の道後温泉へ一番最初に景行天皇(12代)が行幸したのだろうか?

なんで畿内に在る有馬温泉や白浜温泉への天皇行幸が、四国よりずっと遅れたのだろうか?

なんで九州に在る温泉への天皇行幸が、近年まで無かったのだろうか?

あとは、推して知るべし。

24日本@名無史さん2019/06/19(水) 08:06:39.20
『日本書紀』や伊佐爾波神社(八幡宮)の社伝などによると、

厩戸皇子(聖徳太子)だけでなく、景行天皇・仲哀天皇・神功皇后・舒明天皇・斉明天皇(皇極天皇)・中大兄皇子(後の天智天皇)・大海人王子(後の天武天皇)

など多くの皇族方が病気療養のため四国の道後温泉に行幸、来湯している。

それは取りも直さず、道後温泉が倭国王都(阿波)と同じ四国に在り、湯治場として近かったからに他ならない。   @阿波

https://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%81%93%E5%BE%8C%E6%B8%A9%E6%B3%89

25日本@名無史さん2019/06/19(水) 09:04:49.28
四国の道後温泉しか無かったんだろう?
1つしか温泉ないのなら道後へ行くしかないじゃん

26日本@名無史さん2019/06/19(水) 09:15:00.60
同じ四国といっても車も鉄道もないから
徳島から道後は無茶苦茶遠いよ
船はあったから畿内の方が近場

27日本@名無史さん2019/06/19(水) 10:02:09.50
>>25
>四国の道後温泉しか無かったんだろう?

日本中で、四国の道後温泉しか源泉が無かったとでも?   後は推して知るべし。   @阿波

28日本@名無史さん2019/06/19(水) 10:10:28.74
>>26
>徳島から道後は無茶苦茶遠いよ

畿内や九州より、はるかに近くて、安全だよ。  当時の渡海は命がけ。  命をかけて湯治に来るのは本末転倒。


>船はあったから畿内の方が近場

なんでわざわざ畿内から四国の道後へ行くの?  なんで近場の畿内の温泉へ行かないの?   後は推して知るべし。   @阿波

29日本@名無史さん2019/06/19(水) 12:49:36.01
忌部一族は、海部(あまべ)とともに日本各地に進出して、麻、穀を植え、農業、養蚕、織物、製紙、建築、芸能などを伝えた祭祀族、海民族、産業技術集団。

30日本@名無史さん2019/06/19(水) 15:03:03.20
東京都伊豆諸島 神津島に「阿波命」が祀られている。  これも、黒潮に乗って阿波から進出した関東忌部が残した痕跡。

31日本@名無史さん2019/06/19(水) 17:23:38.09
>>26
船って海岸沿いを行く分には相当安全だぞ

32日本@名無史さん2019/06/19(水) 18:44:26.60
阿波は忌部一族(倭人)の総本山。  今ある天皇家の故郷。  だから今も天皇家と阿波は、大嘗祭で誼を通じている。

33日本@名無史さん2019/06/19(水) 18:56:19.80
だから、往古より天皇家は倭国(阿波)に「麁布」の調進(朝廷から頼まれて作り納める意味) を求めてきている。 

34日本@名無史さん2019/06/19(水) 20:20:53.36
先日の退位正殿の儀における三種の神器   その鉄剣も勾玉も倭国(阿波)の特産品。

35日本@名無史さん2019/06/20(木) 07:58:28.29
「林 博章(はやし ひろあき)」

平安時代972年の延喜式大嘗祭式には,阿波国より麻植郡の忌部氏と那賀郡が由加物すなわちお供え物を調進する事になっていました。

36日本@名無史さん2019/06/20(木) 08:39:01.52
この事は古代より忌部の山の世界と那賀郡の海の世界との「人・物の交流」があり,拠点が水運を利用した吉野川中流域山崎の津であったと考えられます。

大分すたれてきましたが,吉野川中流域の人達は,南西の方角,剣山(つるぎさん)を中心とした四国山地の方向を指して「ソラ」または「ソラの人」と呼んでいました。

37日本@名無史さん2019/06/20(木) 11:03:39.48
この場合の「ソラ」とは「山」の事です。 旧麻植郡山地部の大半を占める旧種野山内にある三木山の頂上近くにある三木家周辺は,古くより「空地(そらのち)」と呼ばれ,

地名も「大字三ツ木字空地」となっていましたが,近年の国の地名編成で大字が削除され「字」が「貢」に変更された為,地名から「空地」が消えたのです。

38日本@名無史さん2019/06/20(木) 12:06:00.07
この「ソラノチ」への入り口が,吉野川中流域の旧忌部神社がある山崎の地で,山への入り口でもあり,古代より中世まではこのソラ(山)への交通路の起点となっていました。

その為古くからこの山崎は忌部神社の門前市(いち)を通じて吉野川を経由した海の民・平野の民とソラ(山)の民との物産の交易の場として津が形成され,

ソラの世界の発展と共に成長してきております。

船を自由に操り水運にたけた海の民が,交易の場に情報や文化を共に運んで麻植の忌部やソラの民を支えてきたのかもわかりません。

39日本@名無史さん2019/06/20(木) 12:57:27.43
新天皇の即位後、最初に行う皇室のsteam最重要儀式「大嘗祭」では、阿波の氏族「阿波忌部」が麻で織った反物「麁布(あらたえ)」を調進してきた歴史がある。

阿波忌部の子孫として大嘗祭に関わった旧家の古文書や貴族の日記から、阿波と朝廷祭事のつながりを紹介する。

40日本@名無史さん2019/06/20(木) 15:00:46.77
阿波忌部の子孫と伝わる旧家は、美馬市木屋平の三木家住宅(国指定重要文化財)当主の三木信夫さんだ。

大嘗祭の祭祀具である麁布との関りを示す古文書(県指定文化財)を所有している。

41日本@名無史さん2019/06/20(木) 16:15:13.71
古文書からは、三木さんの先祖が13〜14世紀の亀山・後伏見・花園・後醍醐・光厳・光明の各天皇に、麁布を調進(朝廷から頼まれて作り納める意味)したとされる。

どの文書にも、天皇の命を受けた都の役所が、阿波忌部に麁布の制作を頼むため、阿波国司に天皇の使者、勅使を送るという内容が記されているそうだ。

42日本@名無史さん2019/06/20(木) 16:34:04.73
「大嘗祭の儀式は、平安時代の法令集『延喜式』でわかる。しかし、麁布を調進する際の手順は古文書でしかわからない」と三木さん。

43日本@名無史さん2019/06/20(木) 16:53:56.09
大嘗祭は、南北朝〜江戸時代の政情不安時は中断したほか、行われた時も阿波の麁布が調進されないことがあっという。

「そうした時は、朝廷の役人が阿波忌部の代行を務めたことを示すため、麻布に『忌部所作代』と表示した」

44日本@名無史さん2019/06/20(木) 17:36:48.74
また、南北朝時代の光明天皇以来、577年ぶりに阿波忌部の麁布調進を復活させたのが大正天皇の大嘗祭だった。

信夫さんの祖父宗治郎さんが携わり、昭和天皇にも調進。信夫さんも1990年11月、地域住民の協力を得て今上天皇の大嘗祭で奉仕した。

45日本@名無史さん2019/06/20(木) 19:04:11.74
阿波忌部と麁布を巡る文献では、大和朝廷の初期から51代平城天皇まで麁布を調進したと記している平安時代の「古語拾遺」(807年)もある。

「これら2点が出た後、しばらくは資料が見つからない。  

そして11世紀になると、貴族の日記から分かるようになる」と言うのは、中世史研究者で県埋蔵文化財センターの福家清司理事長。

46日本@名無史さん2019/06/20(木) 19:34:19.84
後鳥羽天皇に関する「山槐紀」(1184年)には「阿波の荒妙神服(あらたえかむみそ)の事だが、平家が四国に居て交通が途絶。 

期限のあることについてどうするのか」などと書かれているという。

47日本@名無史さん2019/06/21(金) 13:33:39.58
「加茂宮ノ前遺跡」 朱の生産国内最大・最古

Q 遺跡ではどのようなものがみつかったのですか。

A 水銀朱を生産したとみられる石臼や石きねが約300点。辰砂原石や表面に水銀朱を塗った土器の破片、耳飾りなどの関連遺物も多く、出土数の合計は約1000点になりました。
また、祭祀に使っていたとみられる石を円形に並べた遺構16基と住居跡2基も見つかりました。

48日本@名無史さん2019/06/21(金) 13:46:00.51
「加茂宮ノ前遺跡」    朱の生産国内最大・最古

Q どのぐらい珍しいのでしょうか。

A 非常に珍しいものばかりです。 縄文後期の石臼や石きねは三重県度会町の森添遺跡などでも見つかっていますが数十点程度で、1000点規模の発見は他になく、
加茂宮ノ前遺跡が当時国内最大規模の生産拠点だったと考えられます。 過去の発掘調査で、弥生時代中期末〜後期初頭(約2000年前)に水銀朱が精製されていたことは分かっていました。
今回の発見で、生産の起源は1500年ほどさかのぼることになります。
また、円形配石遺構の発見は西日本でほとんどなく、居住域と祭祀の遺構がひとまとめに確認できたのは西日本で初めてです。

49日本@名無史さん2019/06/21(金) 14:23:05.29
「加茂宮ノ前遺跡」    朱の生産国内最大・最古

Q 阿南市内では他の遺跡でも発見がありました。どのようなものですか。

A 加茂宮ノ前遺跡から約5キロ離れた若杉山遺跡は弥生時代後期から古墳時代初頭にかけての辰砂の採掘遺跡で、坑道は国内最古であることが分かりました。
遺跡の時代は異なりますが、加茂宮ノ前遺跡で見つかった辰砂原石は若杉山遺跡から産出されたと考えられています。
那賀川中流域で辰砂の採掘から水銀朱の精製まで一体的に行っていたのでしょう。

50日本@名無史さん2019/06/21(金) 15:07:34.54
「矢野遺跡(縄文時代)」の遺物

徳島南環状道路建設に伴い1992〜98年に行われた発掘調査で、縄文時代後期初頭(約4千年前)の遺構面から見つかった。

51日本@名無史さん2019/06/21(金) 18:00:45.46
このうち、土製仮面は縦15.8センチ、横16.7センチ、厚さ1センチのほぼ円形で、粘土で作られている。穴を開けて目や口を作り、鼻や眉も付けている。

用途は定かではないが、祭祀で使われた可能性がある。土製仮面としては国内最古で、最も西の地域の出土例となっている。

52日本@名無史さん2019/06/21(金) 18:10:19.08
土器は煮炊き用の深鉢や盛り付けに使われた鉢、つぼなど。 関東の土器に見られる文様だけでなく、近畿から九州北部の広範囲で確認された文様が混じっている。

祭祀で使われた赤色顔料「水銀朱」が付着しているものもあり、国内最古の水銀朱の使用例として注目されている。

53日本@名無史さん2019/06/21(金) 18:24:00.54
石器にはやじりなどの狩猟道具や食物加工用具がある。 最も多いのは石の重りの石錘で、網にくくりつけて漁労に使ったほか、編む際の重りなどに使われたとみられる。

文化審議会は「縄文時代最古級の土面や、水銀朱の使用例が含まれ、西日本における縄文時代中期末から後期の生活の様子を示す資料として貴重だ」としている。

2019年(平成31年)3月19日 徳島新聞朝刊

54日本@名無史さん2019/06/21(金) 19:30:05.57
鳴門・板野古墳群について    「徳島県の歴史散歩(山川出版社)」から抜粋

鳴門市大麻町の山地の麓には、弥生時代終末期から古墳時代前期にかけて、前方後円墳を核とした首長墳が集中する。総称して鳴門・板野古墳群と呼んでいる。

55日本@名無史さん2019/06/22(土) 06:49:59.79
ついに「陸行一月」の謎が解けたyo!

1.西晋司馬懿(秀吉)は明帝曹叡(信長)の後見人指名がなければ皇帝になれなかった(大恩人・明帝が特別厚遇した倭国王卑弥呼)→明帝曹叡の(自分を後見人に選んだ)聡明さを強調したい。
2.魏の帝都・洛陽から見て呉との戦いにおいて最高の牽制となる背後にあるためには、倭国「女王之所都」が
蘇州の「東治(シ・さんずい)」ではなく、そこから更に約580q南の福州の「東冶(ン・にすい)」の東の海上にある必要(読み手にそう思わせたい)。
3.しかし本当の位置も残さなければならない。
4.倭国の気候&風俗(服装、産物、動物、武器)は、南越(ベトナム)国境にある海南島の大陸側、儋耳・朱崖に似ている。

そこで陳寿が考案した苦肉の策が、九州島(倭国)が海南島(儋耳&朱崖)まで届く、中国大陸の沿海部の沖合をすっぽり包み込む南北に長大な「一つの山島」であるように思わせるテクニック。
まず、帯方郡からの放射描きで、正解の【1.奴国ルート】と、喧伝したい「當在会稽冶之東」に合わせた【2.邪馬台国ルート(幻)】を設定。
次に「奴国」を2回使って「女王之所都」が「奴国だよ、奴国だよ」と正解の【1.奴国ルート】を暗示しつつ(ダチョウ倶楽部「押すなよ、押すなよ」←2回目の念押しがポイント)、
九州島が南北に「陸行半月」であることを倭人から聞き「夷人不知里数、但計以日(7世紀隋書倭国伝)」、
それを南に2倍して東シナ海に浮かぶ幻の九州島(南部)を付け足し、「陸行一月」として、【2.邪馬台国ルート(幻)】を創り、福州「東冶(ン・にすい)」の東に「女王之所都」を合わせた。
同時に倭国に行ったことがある中国知識人には「陸行一日(奴国)」の間違いとすぐに気が付くようにもした(「日」の両端の棒を延ばし日+Л→「月」)。
ちなみに卑弥呼は奴国王帥升(上皇明仁)の男系女子(孫娘)で、北部九州30カ国から共立された繋ぎの女王(愛子内親王)。
邪馬台国七万戸=奴国二万戸(福岡平野)+(狗奴国に狙われた)後背地・筑紫平野五万戸。

帯方郡→※南「水行十日」(倭国沿岸)+東&南「水行十日」=南「水行二十日」…投馬国ルート
帯方郡→※南「水行十日」(倭国沿岸)+「陸行半月」(実際の九州島)+「陸行半月」(幻の九州島)=南「水行十日陸行一月」…邪馬台国ルート

56日本@名無史さん2019/06/22(土) 06:52:30.67
>>55の図解(模式図)だyo(スマホ&タブレットのみんな、ズレ杉スマソ!)
【魏志倭人伝の倭国観】
洛陽→帯方郡〜〜〜〜〜〜〜東→✖畿内説TITANIC沈没地点(✝乗客乗員)
〜〜〜↓※南「水行十日」〜↗〜〜┏━━━━━━━━━━━━━━━━━━
〜〜▲対馬〜〜〜〜〜〜↗〜〜〜┃「女王国東渡海千余里 複有国 皆倭種」 §琵琶湖 
〜〜〜↓〜〜〜+南「水行十日」〜┗━━━━━━━━━━┓   淀川↙ ↑木津川
〜〜▲壱岐〜〜〜┌→→→→→→┐関門海峡〜瀬戸内海▲┃河内湖+大和湖Ω箸墓
〜┏末盧━━━━↑━━━━━┓↓〜〜〜〜┏━━━┓〜┃紀伊半島 
〜┃伊都国→不弥国▲▲▲▲▲┃↓〜〜〜〜┃侏儒国┃〜┗━━━━━━┛
〜┃▲_↘陸行一「日」(正)▲▲▲▲↓国東半島┗━━━┛「在其南 人長三四尺(少彦名)」
〜┃▲▲奴国(女王之所都)▲▲┃↓豊後水道〜〜〜〜〜〜〜〜〜
〜┃▲狗奴国▲▲▲▲▲投馬国┃┘宮崎平野=南「水行二十日」
〜〜┃▲↓「陸行半月」(正)▲┃〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜
会稽〜┗━━九州島(正)━━┛〜↑実際の九州島 〜〜〜〜〜
東治〜〜│〜東シナ海(正)〜│〜↓幻の九州島南部(陳寿の創作)
〜〜〜〜│△△△△△△△△│〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜
〜〜〜〜│↓「陸行半月」(幻)│〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜
〜沖縄▲│△△△△△△△△│〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜
東冶〜〜│女王之所都(幻)△│←「當在会稽東(冶)之東」(魏<西晋のプロパガンダ)
〜台湾▲│狗奴国(幻)△△△│〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜
香港〜〜│△△△△△△△△│〜〜「自女王國以北其戸数道里可得略載」
澳門〜〜│△△△△△△△△│〜〜【其余旁国遠絶 不可得詳】
▲海南島〜└九州島(幻)△┘〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜
↖儋耳・朱崖〜〜〜〜〜〜「所有無与儋耳朱崖同(服装・産物・動物・武器)倭地温暖冬夏食生菜」
←南越(ベトナム)〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜

57日本@名無史さん2019/06/22(土) 07:46:23.81
「若杉山遺跡 国史跡に」                 令和元年 6月22日(土) 徳島新聞朝刊
「辰砂採掘法の解明評価」

弥生時代後期から古墳時代前期に赤色顔料「水銀朱」の原料となった辰砂の採掘が行われた阿南市水井町の若杉山辰砂採掘遺跡が、国史跡に指定される。
国の文化審議会が21日、柴山昌彦文部科学相に答申した。
水銀朱は葬送儀礼などに用いられ、古代の西日本地域で重用された。
文化審は、原料の採掘方法が判明した全国唯一の遺跡として、歴史的価値が高いと評価している。
県内の国史跡は12か所になる。
指定されるのは、那賀川支流の若杉谷川の西側山腹斜面約1.2ヘクタール。
横穴状に岩盤を掘り進めた採掘抗跡と露天掘り跡の2か所の採掘場所が確認されている。
採掘抗跡は弥生時代後期に採掘が始まり、国内最古とされている。
採掘時に出た排石のほか、原石を砕いた石杵などの石器も見つかり、遺跡内で不要鉱物を取り除いて粉末にしていたことが分かっている。
また、石杵に香川県東部で産出する硬質の石が含まれることなどから、広範囲から辰砂を求めて人々が来ていた可能性が指摘されている。
遺跡は第2次世界大戦中に行われた水銀探索の最中に発見され、1969年に市史跡に指定。
市と県教委が2017〜18年度に行った発掘調査で2か所の採掘場所跡などを確認し、古代の採掘方法を解明した。
国史跡指定に当たり、遺跡の名称は従来の若杉山遺跡から若杉山辰砂採掘遺跡に変更される。

58日本@名無史さん2019/06/22(土) 07:55:48.68
後漢の一大率は監察官(秘密諜報機関米CIA・旧ソ連KGB・英MI6長官)、次の魏の一大率は行政官(総理大臣)。
しかし魏の次の西晋で編集された魏志倭人伝では、なぜか前の前の王朝・後漢代の監察官(秘密諜報機関長官)の意味合いで使われている。
ここに邪馬台国の所在地を謎を解くカギがある。

中国本土と違い、辺境の倭国では、一大率が後漢代の監察官と魏代の行政官を兼ねていたのである。
これを説明するのが面倒と感じた陳寿は、一大率(魏代の行政官)を(漢代の)監察官の意味合いで補足したわけである。
すなわち、実質的な政治を司っていた総理大臣+衆議院議長である男弟(佐治国)が伊都国王で、諜報機関CIA長官も兼務していたのである。

畿内(四国)説だと、CIA長官&総理大臣+衆議院議長が女王之所都・纏向(阿波)から遠く離れた一大率・伊都国にいることになり、当然一大率からの使者も頻繁に往来したであろうから、
纏向(阿波)には専用の居館を設けなければならないし、北部九州の文物(文書や硯、土器)も持ち込まれたはずである。逆もしかりである。
ところが伊都国には布留式土器の普及もなく、纏向(阿波)でも硯・北部九州の土器は出ていない。

卑弥呼は北部九州奴国(博多)にいた>>55とするのが至当である。
伊都国と奴国の緊密な交流からも、考古学的にそれは裏付けられる。

59日本@名無史さん2019/06/22(土) 07:59:46.12
>>58
>卑弥呼は北部九州奴国(博多)にいた>>55とするのが至当である。

「丹」の採れない北部九州奴国(博多)に、卑弥呼がいる訳がない。  以上。   @阿波

60日本@名無史さん2019/06/22(土) 09:01:19.50
>>54

主な古墳は、西山谷2号墳  池谷宝幢寺古墳(県史跡)  天河別神社古墳群(6基・県史跡)  萩原1号墓(消滅)・2号墓  大代古墳(県史跡)  板野の愛宕山古墳(県史跡)

61日本@名無史さん2019/06/22(土) 10:38:18.56
発掘調査で埋葬施設が判明した西山谷2号墳、天河別神社1・2号墳、愛宕山古墳、大代古墳は、いずれも結晶片岩板石積みの竪穴式石室を構築しており、

鮎喰川産の土器を供献するなど、気延山古墳群との親縁性を示している。

62日本@名無史さん2019/06/22(土) 11:48:16.63
西山谷2号墳は全国最古級の竪穴式石室で、石室外周に萩原1・2号墓に類似した一種の囲み壁をつくっている。 

積石木槨から竪穴式石室の成立を考える上で興味深い。

63日本@名無史さん2019/06/22(土) 12:19:39.38
近年、東阿波型土器が大和・河内地域の遺跡から相当量出土することをふまえ、 大阪府茨木市の将軍山古墳や 紫金山古墳、 高槻市の闘鶏山古墳 を始めとする

摂津 ・北河内地域に点在する結晶片岩石積みの竪穴式石室について、 その用材石室構築技術が、阿波地域から提供されたとみる説が定着しつつある。

64日本@名無史さん2019/06/22(土) 13:46:55.91
鳴門板野古墳群には、中国製の銅鏡の副葬がみられるのも特徴である。

「板野・鳴門古墳群」
http://ktmrj15.webcrow.jp/p36ts/tpx14042619maibun.htm

65日本@名無史さん2019/06/22(土) 15:04:02.48
「阿波 鍛冶工房から砂鉄が出土した弥生の大集落「矢野遺跡」を訪ねる 」

http://www.infokkkna.com/ironroad/2010htm/iron6/1003awa00.htm

66日本@名無史さん2019/06/22(土) 15:34:52.96
阿波国 国名の成り立ち

@ 北の粟国(邪馬台国) と 南の長国(狗奴国)

A その後、「粟国」に統一

B 和銅6年(713)5月の「好字令」により 「阿波国」となる。 

67日本@名無史さん2019/06/22(土) 15:37:41.69
阿波国 国名の成り立ち

@ 北の粟国(かつての邪馬台国) と 南の長国(かつての狗奴国)

A その後、「粟国」に統一

B 和銅6年(713)5月の「好字令」により 「阿波国」となる。 

68日本@名無史さん2019/06/22(土) 16:10:39.57
大和朝廷は、よっぽど四国が恥ずかしかったんだろうな。

69日本@名無史さん2019/06/22(土) 17:48:59.60
>>68
>大和朝廷は、よっぽど四国が恥ずかしかったんだろうな。

違うだろう。  白村江の戦で惨敗して、奈良盆地へ逃げ込んだ(遷都)ことを恥じたんだよ。

70日本@名無史さん2019/06/22(土) 18:35:12.86
弥生人にとって、「阿波」はまさに理想の土地。

温暖な気候・多数の大河の恵み・大河流域の土地の恵み・黒潮流れる大海の恵み・山深い森林の恵み・多種類の希少鉱物の恵み。

71日本@名無史さん2019/06/22(土) 19:19:34.27
県北部(邪馬台国)では、銅、泥質片岩、緑色片岩、翡翠、蛇紋岩、紅蓮石が採れる。 技術的には、緑色片岩などの積み石技術、石棒・石斧・勾玉製作。

県南部(狗奴国)では、魚介類・辰砂が採れる。  技術的には、造船・航海術。

72日本@名無史さん2019/06/23(日) 08:02:35.60
>>71

阿波に人が集まり、独自文化が発祥・全国展開したのは、当然といえば当然。

73日本@名無史さん2019/06/23(日) 09:24:46.27
「倭国(阿波)の最先端文化・技術」  

九州や畿内などと比べ物にならない圧倒的な差。

@勾玉
A軽量薄型丸底土器
B葺石・竪穴石室墓(前方後円墳等)
C水銀朱
D緑色片岩製柱状片刃石斧
E泥質片岩製石棒
FT類鉄鍛冶炉
G航海術
H農耕術
I漁労術
その他

74日本@名無史さん2019/06/23(日) 12:37:00.32
「日本最古のお寺か」

阿波國美馬郡 郡里廃寺跡 (白鳳寺院)

75日本@名無史さん2019/06/23(日) 13:54:23.94
逃げた事情が恥ずかしかったからって元居た四国を抹殺してるのはおかしいな。
やっぱり四国は大和朝廷にとって黒歴史だったんだろう。

76日本@名無史さん2019/06/23(日) 16:49:01.51
>>75
>やっぱり四国は大和朝廷にとって黒歴史だったんだろう。

たとえば、どういう黒歴史?

77日本@名無史さん2019/06/23(日) 17:20:50.80
>>74

吉野川の北岸、扇状地上に営まれた白鳳時代創立の寺院跡である。

早くから立光寺跡として知られていたものであり、調査の結果「法起寺」式伽藍配置をとるものであることが判明した。

78日本@名無史さん2019/06/23(日) 17:50:50.89
塔跡基壇は各辺12メートルをはかり、塔軸部初重の1辺は中の間が2.3メートル、両脇間はそれぞれ2.08メートルと復原することができる。

塔心礎は旧地表下に据えたものであり、中央に径13センチ、深さ6.5センチの舎利孔が穿たれている。

79日本@名無史さん2019/06/23(日) 18:26:32.69
心礎上に据えた心柱は、南北径1.06メートル、 東西径1.08メートルをはかる不整八角形を呈し、 心柱四周を根巻板で囲むことが知られた。

80日本@名無史さん2019/06/23(日) 19:00:34.11
金堂跡は東西18メートル、 南北15メートル前後と復原される。  塔、金堂間の心を東西に47メートルへだてた位置に石敷列が走り、

その下方に土塁を発見しており、 また塔、金堂心より南北に60メートルをへだてた位置で同様な遺構を発見し、 寺域をほぼ知ることができる。

81日本@名無史さん2019/06/23(日) 19:29:35.37
日本最古の寺院の一つ

「石井廃寺跡」

82日本@名無史さん2019/06/23(日) 19:35:00.94
石井廃寺は、南に緩く傾斜する段丘面上にある古代寺院である。

古くから瓦の出土などにより寺院の存在が推定されていた。

83日本@名無史さん2019/06/23(日) 19:47:15.87
1957年(昭和32年)〜1959年(昭和34年)発掘調査が行われ、 東に塔、西に金堂が並ぶ法起寺式の伽藍配置であることが分かった。

また、 明瞭な遺構は確認されないものの、 二つの伽藍の北に講堂、南に中門が存在したと推定されている。

84日本@名無史さん2019/06/23(日) 20:30:33.80
出土遺物には 瓦・土師器・須恵器の他に瓦塔などがある。

瓦の文様などから 奈良時代前半に建立されたと考えられる。  

85日本@名無史さん2019/06/23(日) 21:07:36.53

86日本@名無史さん2019/06/23(日) 22:20:14.87
内御田窯跡群の中のひとつであり、 気延山南の東斜面にある。  奈良時代に屋根瓦を焼いた窯跡で、 外に須恵器も焼かれている。

18段の小さい段状の燃焼部と煙出し部分が確認されているが、 燃料を燃やす焚き口部分は残っていない。  全長10m、幅1.3m、勾配45度の瓦窯様式である。

87日本@名無史さん2019/06/23(日) 22:48:57.40
軒丸瓦と軒平瓦が出土しており、阿波国分寺跡 ・ 阿波国分尼寺跡 ・ 石井廃寺跡などで見つかっていることから、瓦を供給されるために作られたことが分かる。

奈良時代から平安時代初頭と案内の看板には記されているが、 石井廃寺跡出土瓦と同形式であるならば白鳳文化と呼ばれる頃と推測される。

88日本@名無史さん2019/06/24(月) 07:11:46.72
「郡里廃寺跡 (白鳳寺院)」

瓦は同じ美馬市内にある坊僧窯跡群で焼かれたものと考えられている。この坊僧窯跡群の存続は白鳳時代から平安時代にかけてである。

http://awakouko.info/modules/xpwiki/?%C8%FE%C7%CF%BB%D4%2F%B7%B4%CE%A4%C7%D1%BB%FB%C0%D7
https://sueyasumas.exblog.jp/13240604/
https://sueyasumas.exblog.jp/13230836/

89日本@名無史さん2019/06/24(月) 09:21:49.99
千葉県成田市台方の式内社「麻賀多神社」は、「麻」が社紋。

90日本@名無史さん2019/06/24(月) 14:26:13.13
千葉県印旛(いんば)郡栄町の「大鷲神社」   天乃日鷲尊を祀り、社殿天井に「金の鷲」が取り付けられている。

91日本@名無史さん2019/06/24(月) 14:32:26.15
社伝によると 「天乃日鷲尊はその子孫代々麻植の神として神功があり, 麻に係りのある当地においても祭神となっております」 という。

92日本@名無史さん2019/06/24(月) 18:05:50.42
『安房志』によると「天日鷲尊の神霊が,天下に異変がある時は,金色の鷲となって現れるので, その霊験を畏敬して小鷹の神と称した」とあり、

印旛沼の由来は「忌部沼」が訛ったもの。

93日本@名無史さん2019/06/24(月) 18:33:32.11
千葉県勝浦市浜勝浦の遠見岬神社   宮司歴代の墓碑には「勝占忌部」と書かれている。   

阿波忌部の後裔である。

94日本@名無史さん2019/06/24(月) 19:01:57.83
宮司の安房忌部系図には、 天富命の娘の飯長媛(イイナガヒメ) と 天日鷲命の孫である由布津主命(ユフツヌシノミコト)とが結婚して、 

堅田主命(訶多多主命)を生んで安房忌部の祖としている。

95日本@名無史さん2019/06/24(月) 19:19:40.49
>>75>>76
高天原の神の委任による天皇統治と
奴国〜倭の五王、中国の属国だった歴史は矛盾する為
後者(つまり四国)は消された

さらに嵯峨天皇の命令で空海が痕跡(王宮など)の残る地域に寺を建て細工
掘り起こされないように封印した

96日本@名無史さん2019/06/24(月) 19:23:50.32
乙巳の変の場所は18番札所の恩山寺ではないか

97日本@名無史さん2019/06/24(月) 19:45:26.11
恩山寺が宮跡?  そうであれば、そうかも。  小松島市は飛鳥の地だから。   

98日本@名無史さん2019/06/24(月) 22:42:02.78
>>>94

神社境内には「忌部塚」と呼ばれる弥生以前の洞窟遺跡もあり, 阿波忌部の先遣隊の塚であろう。

99日本@名無史さん2019/06/25(火) 10:13:43.24
千葉県館山市相浜にある「楫取(かんどり)神社」の祭神は 宇豆彦命(ウズヒコノミコト)で、 天富命に従ってこの地に渡り, 漁業を主として指導したといわれる。

100日本@名無史さん2019/06/25(火) 10:36:34.49
この「楫取(かんどり)」という名は、 今も徳島県の吉野川で使用されている川舟である、 楫取舟と関係すると思われる。

101日本@名無史さん2019/06/25(火) 13:25:05.35
阿波忌部が上陸した地 千葉県館山市布良の 「布良崎神社 (祭神:天富命)」周辺に 「神余」(かなまる)という地名がある。

これは「安房神社」に奉仕する忌部神戸が、増えてあふれた人達が新しく開拓したことに由来する。

102日本@名無史さん2019/06/25(火) 15:25:52.79
「安房神戸(あわかんべ)」という地名もある。 

103日本@名無史さん2019/06/25(火) 19:52:17.86
茨城県新治(にいはり)郡新治村の 「鷲神社」 は社殿が平成7年に焼失したが、氏子の寄付により、平成11年に社殿を復興。

ご神体に徳島の忌部神社から分祀を依頼。  鷲神社再建竣工記念碑には「本宮四国徳島市忌部神社」とある。

104日本@名無史さん2019/06/25(火) 20:36:13.44
茨城県結城(ゆうき)市小森の 「大桑神社」 の社伝には「古代,東国に養蚕・織物を伝えたとされる 阿波斎部が,

稚産霊尊(ワカムスビノミコト)を祭神として, 北方の大水河原に創建。  この辺り一帯を大桑郷と名付けた」 とある。

105日本@名無史さん2019/06/25(火) 21:23:48.44
栃木県小山市栗宮の式内社 「安房神社」 の祭神は、忌部の祖神 天太玉命。

106日本@名無史さん2019/06/25(火) 21:58:11.49
同じく、栃木県小山市萓橋の 「日鷲神社」 の祭神は、阿波忌部の祖神 天日鷲命。

107日本@名無史さん2019/06/25(火) 22:21:14.25
またまた、栃木県佐野市にも 「鷲宮神社」。 もちろん、祭神も、 阿波忌部の祖神 天日鷲命。

108日本@名無史さん2019/06/25(火) 22:27:01.68
さらに、東京都浅草にも 「鷲神社」。 ここも もちろん、祭神は、 阿波忌部の祖神 天日鷲命。

109日本@名無史さん2019/06/26(水) 07:34:12.64
稲持遺跡(徳島県三好郡東みよし町稲持)は、弥生時代後期の玉作遺跡として代表的である。

110日本@名無史さん2019/06/26(水) 08:12:34.09
斉一性の強い小型勾玉の一群が阿波地域を中心に 讃岐地域・吉備地域とその西縁・伊予地域・豊前、筑前、肥前地域 に点在しており、

石材・色調・形状から特定の場所で作られたと考えられる。

111日本@名無史さん2019/06/26(水) 08:26:42.70
蛇紋岩勾玉の製作遺跡 : 「東みよし町稲持遺跡」・「徳島市矢野遺跡」・「上板町七条経塚遺跡」

112日本@名無史さん2019/06/26(水) 11:29:52.64
勾玉原石産出地 : 徳島県吉野川加茂谷川水系 蛇紋岩

113日本@名無史さん2019/06/26(水) 13:12:38.74
徳島県で勾玉が出土した弥生集落遺跡 : 「稲持遺跡」、「矢野遺跡」、「黒谷川郡頭遺跡」、「井出上遺跡」など。

114日本@名無史さん2019/06/26(水) 14:55:19.24
井手上遺跡(徳島県三好市井川町西井川)(弥生時代後期終末〜古墳時代前期初頭の集落)出土の翡翠製勾玉は、

新潟県糸魚川で産出する翡翠を使用し、北陸周辺で加工されたものであることがわかっている。

115日本@名無史さん2019/06/26(水) 17:05:25.35
他に出土した遺物は、吉野川下流域、讃岐、吉備等の搬入土器が含まれており、

当時の倭国(阿波)交易の範囲を知る上で貴重な発見となっている。 

116日本@名無史さん2019/06/26(水) 20:22:47.36
徳島県の銅鐸出土地
『日本古代遺跡37徳島』14ページより  後ろの数値は銅鐸の高さ(cm)
                       
1. 檜銅鐸           鳴門市大麻町檜字乾谷    90
2.神宅銅鐸         板野郡上板町神宅      41
3. 川島銅鐸          麻植郡川島町神後     45.6
4. 森藤銅鐸         麻植郡鴨島町森藤      21
5. 牛島銅鐸         麻植郡鴨島町上浦      34.7
6. 伝久勝銅鐸        阿波郡阿波町久勝   
7. 久千田銅鐸        阿波郡阿波町久勝      30
8. 伝榎瀬銅鐸        徳島市川内町榎瀬      44.5
9. 星河内美田1号銅鐸  徳島市上八万町星河内美田
10. 星河内美田2号銅鐸  徳島市上八万町星河内美田
11. 星河内美田3号銅鐸  徳島市上八万町星河内美田
12. 星河内美田4号銅鐸  徳島市上八万町星河内美田
13. 星河内美田5号銅鐸  徳島市上八万町星河内美田
14. 星河内美田6号銅鐸  徳島市上八万町星河内美田
15. 星河内美田7号銅鐸  徳島市上八万町星河内美田
16. 源田1号銅鐸      徳島市国府町西矢野源田   41.3
17. 源田2号銅鐸      徳島市国府町西矢野源田   41.3
18. 源田3号銅鐸      徳島市国府町西矢野源田   52.0
19. 安都真1号銅鐸     徳島市入田町安都真     29.5
20. 安都真2号銅鐸     徳島市入田町安都真     21.7
21. 安都真3号銅鐸     徳島市入田町安都真     24.6
22. 安都真4号銅鐸     徳島市入田町安都真     21

117日本@名無史さん2019/06/26(水) 21:44:08.95
23. 名東銅鐸        徳島市名東1丁目       40
24. 多家良銅鐸       徳島市八多町多家良     90.9
25. 多家良銅鐸       徳島市八多町多家良     45.4
26. 伝福万谷銅鐸      徳島市八万町福万谷     
27. 勢合銅鐸        小松島市立江町赤石     36
28. 畑田銅鐸        阿南市下大野町畑田     54.02
29. 八貫渡銅鐸       阿南市下大野町八貫渡    
30. 才見銅鐸        阿南市才見町
31. 長者原1号銅鐸     阿南市山口町長者原     64.25
32. 長者原2号銅鐸     阿南市山口町長者原     41
33. 田村谷銅鐸       阿南市山口町田村谷     62 
34. 曲がり1号銅鐸     阿南市椿町曲り          42.4
35. 曲がり1号銅鐸     阿南市椿町曲り          31
36. 伝長生銅鐸       那賀郡長生町
37. 榎名銅鐸        三好郡西祖谷山村榎名     推定55
38. 伝吉野川沿岸銅鐸   美馬郡脇町拝原        6.2
39. 伝脇町銅鐸
40. 伝阿波銅鐸
41. 江原小銅鐸

遺跡発掘後進県なのに、なぜ徳島で、このように非常に多くの場所から出土するのだろうか?    後は推して知るべし。 

118日本@名無史さん2019/06/27(木) 07:01:10.00
「徳島県出土の同范銅鐸」

倭国(阿波)から各地へ拡がっていった銅鐸たち。

川島銅鐸(吉野川市) − 加茂岩倉遺跡銅鐸(島根県雲南市)

伝脇町銅鐸(美馬市) − 荒神谷遺跡銅鐸(島根県出雲市)

安都真1号銅鐸(徳島市) − 種松山銅鐸(岡山県倉敷市)

伝榎瀬銅鐸(徳島市) − 山町銅鐸(奈良県奈良市)

119日本@名無史さん2019/06/27(木) 09:41:29.89
忌部一族=倭人(広義の忌部氏)は、海部(あまべ)とともに日本各地に進出して、麻、穀を植え、農業、養蚕、織物、製紙、建築、芸能などを伝えた祭祀族、海民族、産業技術集団。

120日本@名無史さん2019/06/27(木) 10:24:29.73
養蚕は別だろ
あれは稲作地域の文化だ

121日本@名無史さん2019/06/27(木) 11:07:35.91
>>120

たとえば

茨城県結城(ゆうき)市小森の 「大桑神社」 の社伝には「古代,東国に養蚕・織物を伝えたとされる 阿波斎部が,

稚産霊尊(ワカムスビノミコト)を祭神として, 北方の大水河原に創建。  この辺り一帯を大桑郷と名付けた」 とある。

122日本@名無史さん2019/06/27(木) 13:54:09.75
阿波から奈良大倭への遷都(7世紀後半〜710年)によって、忌部の本家は阿波に留まる一方、その一部が奈良大倭に渡り、

やがて諸国の忌部を統括することになる。これが中央忌部である。

123日本@名無史さん2019/06/27(木) 14:27:09.90
阿波に残った忌部の本家は、同家の本源的職掌である 麁布・木綿及び高天原の山の幸を由加物として、

践祚大嘗祭の度ごとに新都に送った。

母国からの調進である。

124日本@名無史さん2019/06/27(木) 17:07:06.85
忌部の本家が阿波に残った理由は、天照大神以来、天孫(天皇)の祭祀に必要な神具は「高天原で採取調整されなければならない」という、

天岩屋戸神話に由来する神典を墨守したからである。

125日本@名無史さん2019/06/27(木) 19:55:13.80
「由加物使」一行が阿波から京に向かうに、通過する国々の道路は掃き清められ、国司らが出迎えるという『延喜式』の別格規定は、

高天原から新都に向かう「宗国からの使」という意味からである。

126日本@名無史さん2019/06/27(木) 22:30:21.53
また、「麁布」がすべての貢進物の中で、唯一神祇官扱いになるなど、超絶した扱いとなっているのは、

記紀神話で、天照大神が高天原において機織女を召して織らしめ、また大神自らも織られたとする「神御衣」と見立てているからである。

127日本@名無史さん2019/06/27(木) 23:10:55.75
>>124
お供えの粟も阿波産を使ってたらしいね

128日本@名無史さん2019/06/28(金) 17:34:31.39
>>126

それを忌部の本家(阿波忌部)が、畏れ多くも代行厳修し、麁布として織り上げたものを、

新天皇が践祚大嘗祭に奉奠して天照大神にお示しする。

129日本@名無史さん2019/06/28(金) 19:42:56.13
天皇陛下即位式である大嘗祭に、麁服を調進する大役を太古から担う御衣御殿人(みぞみあらかんど)の家柄である三木家は、

木屋平村の三木山山頂に居を構える。

130日本@名無史さん2019/06/28(金) 21:20:03.95
貢(みつぎ)、あるいは三ッ木とも呼ばれる地名は、深く調進に関わる為でもあろう。 

南北朝時代にあっては、山岳武士の頭目として南朝に関わった。

131日本@名無史さん2019/06/28(金) 21:23:37.07
さて、この三木山こそは、太古の高天原であると同時に、天皇家の故郷でもある。

このお山から御霊を大嘗宮へ運ぶ為には何か媒体が必要である。

132日本@名無史さん2019/06/28(金) 21:27:20.58
つまり、依り代に付いて初めて示現されるのが神霊であるなら、「麻」こそ媒体であると云える。

133日本@名無史さん2019/06/28(金) 21:53:27.61
古来より伊勢神宮の神札は神宮大麻と呼ばれ、御師が領布した御祓大麻を指すからだ。

134日本@名無史さん2019/06/29(土) 06:46:40.17
後世、大麻(おおぬさ)は紙に変わってしまい、現代人は麻の持つ意味を忘れようとしている。

135日本@名無史さん2019/06/29(土) 06:54:31.26
大麻(麻)の繊維は、日本では古くからしめ縄、祓い具(おはらい)としての神事の大麻などに用いられてきた。

136日本@名無史さん2019/06/29(土) 07:39:56.85
また、麻から作った大麻(マリファナ)は薬理作用があり、紀元前から古代人が嗜好品、また医薬品として用いてきた。

137日本@名無史さん2019/06/29(土) 08:18:06.76
大麻(マリファナ)は喫煙、気化、飲食により成分を摂取する。

138日本@名無史さん2019/06/29(土) 10:52:43.88
麻といえば、阿波忌部。 

『名曰卑彌呼事鬼道能惑衆』  『名を「卑弥呼」といい、「鬼道」に仕えて人心を惑わしている』

卑弥呼は大麻(マリファナ)を利用して「鬼道」を操ったのだろう。 

139日本@名無史さん2019/06/29(土) 12:51:49.90
道が整備されていない古代迄の交通路は,水運が徐々に発達し,すでに縄文時代には鳴門市から阿南市・海陽町にかけて海運交通のあったことが遺跡からみられます。

140日本@名無史さん2019/06/29(土) 13:36:04.01
阿南市の若杉山遺跡は,弥生時代に赤い顔料の水銀朱をつくるため,全国唯一の辰砂(しんしゃ)の原産地遺跡でした。

141日本@名無史さん2019/06/29(土) 13:45:08.76
辰砂=水銀と硫黄化合物の鉱石,辰砂を粉砕して水銀朱を取り出す。

弥生時代から古墳時代を中心に,遺骸や棺に朱色を塗る風習が盛んに行われて,水銀朱は朱・丹等と呼ばれ使用流通したのです。

142日本@名無史さん2019/06/29(土) 14:33:09.74
この遺跡をみますと,板野郡板野町の黒谷川郡頭(こうず)遺跡や名東遺跡などから朱の精製用具等が発見されており,

弥生時代終末期(西暦200年頃)の若杉山辰砂が,海や河川を利用して運ばれております。

143日本@名無史さん2019/06/29(土) 15:46:14.29
朝廷の秘密を維持するために四国への観光は避けた方が良さそうだな。

144日本@名無史さん2019/06/29(土) 16:53:56.49
若杉山遺跡にある土器類も,吉野川流域土器や鮎喰川上流の結晶片岩の混在した土器,また畿内的土器など各地の土器が混在しており,

河川や海を通じて運び込まれています。  すでに若杉山遺跡には,辰砂を運び出す人や食料等を運び入れる人等の組織化された海上交通に関わる集団がいたとも考えられています。

145日本@名無史さん2019/06/29(土) 17:53:44.34
古代に下りますと,都を起点に諸方に陸上交通である宿駅が整備され,駅路すなわち国道がつくられていきます。

阿波でも鳴門の撫養から讃岐・伊予・土佐に抜ける南海道と呼ばれる国道があり,それ以外に阿波国から土佐国へ通じる駅路の国道があります。

146日本@名無史さん2019/06/29(土) 18:05:10.57
古代に下りますと,都を起点に諸方に陸上交通である宿駅が整備され,駅路すなわち国道がつくられていきます。

阿波でも鳴門の撫養から讃岐・伊予・土佐に抜ける南海道と呼ばれる国道があり,それ以外に阿波国から土佐国へ通じる駅路の国道があります。

147日本@名無史さん2019/06/29(土) 18:25:16.98
おおよそ現在の国道55号線沿いに阿南市から海陽町までの海岸沿いを,奈良時代初期の養老2年(718)に設置され,

平安時代初期の延暦15年(796)に廃止されるまで,水上交通路と並行して多くの港や津を経て延びていたのです。

148日本@名無史さん2019/06/29(土) 20:38:24.31
畿内地域の古墳の石材調査が進むにつれて、倭国(阿波)の結晶片岩を石室や葺石に用いた前期古墳の事例が増加してきた。

149日本@名無史さん2019/06/29(土) 20:48:43.73
大阪府の「闘鶏山古墳」、「将軍山古墳」、「鍋塚古墳」、「牧野車塚古墳」、神戸市の「西求女塚古墳」などが典型例だ。

150日本@名無史さん2019/06/29(土) 21:46:48.73
そして、そうした結晶片岩を使う事例が、畿内北部の淀川流域から瀬戸内北岸にかけての一帯に多い傾向もより明瞭になってきた。  

http://www.let.osaka-u.ac.jp/kouko/061018awaitano.htm

151日本@名無史さん2019/06/30(日) 11:22:05.12
徳島の式内社「意富門麻比売神社(宅宮神社)」の平安時代から続く神踊り。

「伊豆毛(いずも)の国の伯母御の宗女、御年十三ならせます、こくちは壱字とおたしなむ」

152日本@名無史さん2019/06/30(日) 13:56:01.10
出雲=大国 ですものね

153日本@名無史さん2019/06/30(日) 15:10:01.04
祭神は大苫邊尊(おおとまべのみこと)、大年(おおとし)大神、稚武彦(わかたけひこ)命。

式内社では、全国で唯一、「大苫邊尊」を祀る神社。

なぜ壱与をこんな片田舎で歌う?  あとは推して知るべし。

154日本@名無史さん2019/06/30(日) 19:09:53.59
「天照大神(卑弥呼)の次に治世したといわれる壱与(いよ)を祀っている宅宮神社」

155日本@名無史さん2019/06/30(日) 21:40:48.85
阿南市加茂町にある加茂宮ノ前遺跡のは発掘調査では注目すべき成果がいくつもあった。
その一つに縄文時代後期(約4千〜3千年前)の集落跡の発見を挙げることが出来る。
集落跡からは、竪穴住居2軒のほか、屋外炉(火を燃やした跡)、土坑などが見つかった。
注目されるのは、県内で初めて確認された円形配石遺構16基だ。
1基の円形配石遺構は、直径が1〜3m。
人の頭よりやや大きい砂岩の河原石を円形に並べたもので、円の内部には小石や、白色の小円礫(砂利)が敷き詰められていた。
また、16基あるサークルが一部重なり合っていることや出土した地層に高低差があることから、全ての円形配石遺構同時期に作られたのではなく、長期間にわたって順に造られたと考えられる。
配石遺構は、主に祭祀施設として利用されたと考えられる。
縄文時代前期から中期(約7千〜4千年前)ごろ、中部地方を中心として直径が50mを超えるような環状列石(ストーンサークル)が造られるようになった。
後期に入ると、その分布は東北地方にまで広がる。
一方、西日本では、こうした大型の環状列石は造られることはなく、代わりに小型の円形配石遺構が造られた。
しかし、発見された遺構は極めて少ない。
円形配石遺構が竪穴住居に近接している加茂宮ノ前遺跡の場合、日常生活と祭祀をした場所が一体として発見された稀な例として、全国的に注目されている。(県埋蔵文化財センター事業課長・氏家敏行)

2019年(令和元年)6月30日 徳島新聞朝刊

156日本@名無史さん2019/07/01(月) 07:45:18.46
延喜式内社で「伊邪那美命」が単独で祀られているのは「伊邪那美神社」一社だけで、その鎮座地は高越山山頂であったと伝えられております。

157日本@名無史さん2019/07/01(月) 10:46:11.79
加茂宮ノ前遺跡(下)

阿南市加茂町の加茂宮ノ前遺跡は、那賀川の右岸、標高24〜26mの自然堤防上に立地している。
発掘調査で弥生〜古墳時代集落の中心部を確認した。
それ以前の調査成果と合わせ、竪穴住居が約100軒発見されたことになる。
県内の他の弥生時代集落では、鉄器が製作されたとみられる竪穴住居は各集落の中で1,2軒程度しかない。
ところが、加茂宮ノ前遺跡の弥生時代中期末〜後期初頭の竪穴住居の約半数では、鉄器を生産していたことを示す鍛冶炉が複数設けられていた。
生産に関わる道具類と鉄鏃などの製品も出土した。
背景には、水銀朱の生産との関連が考えられる。
これまでの発掘調査で、石臼や石杵といった水銀朱の生産に使った道具類のほか、原材料となる辰砂が大量に出土している。
その流通ネットワークを通じて、当時の最先端技術だった鉄器の製作法とその原料の鉄が持ち込まれたと推測できる。
加茂宮ノ前遺跡の弥生時代中期末〜後期初頭の竪穴住居からは、稀少な装飾品も多数発見された。
この時期の県内の他の遺跡からは、ガラス小玉や凝灰岩製管玉などが数点しか出土していない。
加茂宮ノ前の集落が繁栄していた証といえる。
県内の弥生時代中期末の鍛冶炉の発見例は、県内では加茂宮ノ前遺跡が初めてだ。
それ以外は鳴門市大麻町の光勝院寺内遺跡、徳島市名東町の名東遺跡、徳島市国府町の矢野遺跡など、いずれも吉野川下流域の遺跡に限られていた。(県埋蔵文化財センター専門研究員・田川憲)

2019年(令和元年)7月 1日 徳島新聞朝刊

158日本@名無史さん2019/07/01(月) 18:53:30.65
>>156
伊邪那美命は埴山比賣(はにやまひめ)と弥都波能売(みつはのめ)の神を産んだあとに薨ったと日本書紀には記され、

高越山が含まれる美馬郡には、この三神(伊邪那美命・埴山比賣・弥都波能売)が式内社で祀られているという背景もあります。

159日本@名無史さん2019/07/01(月) 20:00:07.05
その他に伊邪那岐命(いざなぎ)との争いの仲介役をした菊理比賣命。 

そして,伊邪那岐命が投げた桃が神となった意富加牟豆美命(おおかむづみのみこと)が

同じ阿波町に祀られ、条件が一致しているんです。

160日本@名無史さん2019/07/01(月) 20:07:33.76
その「菊理比賣命」を祀る神社

阿波市 阿波町勝命北に鎮座する「勝命神社」

御祭神は菊理媛命(くくりひめのみこと)

http://goutara.blogspot.com/2012/11/blog-post_29.html

161日本@名無史さん2019/07/01(月) 20:13:26.96
続いて、「意富加牟豆美命」を祀る神社

阿波市 阿波町新開に鎮座する「加茂神社」。

御祭神は瓊々杵尊・意富加牟積尊・天穂日命

http://goutara.blogspot.com/2010/02/blog-post_22.html

162日本@名無史さん2019/07/01(月) 20:24:31.44
「阿波誌」に「菊理祠勝命村に在り、旧事記に云ふ伊奘諾伊弉冉二尊、泉津平坂に相争ふ。  菊理媛神白す事あり、 伊奘諾尊聞きて之を善とす」とあります。

菊理媛神(くくりひめのかみ)は、加賀の白山や全国の白山神社に祀られる白山比盗_(しらやまひめのかみ)と同一神とされる。 wikipedia

163日本@名無史さん2019/07/01(月) 20:29:44.30
菊理媛神(くくりひめのかみ)=白山比盗_(しらやまひめのかみ)

http://goutara.blogspot.com/2012/11/blog-post_29.html  = https://sueyasumas.exblog.jp/17016171/

164日本@名無史さん2019/07/01(月) 20:30:38.59
阿波なんてあり得ませんねw

南至邪馬台国はどこでしょう?
邪馬台国四国説 part3 	->画像>8枚

165日本@名無史さん2019/07/01(月) 20:43:34.64
続いて

徳島県吉野川市山川町忌部山字白山

「白山(しらやま)比売神社」

166日本@名無史さん2019/07/01(月) 20:50:03.90
石碑には「忌部社摂社 志良夜末比賣神社」とあります。

「忌部神社」の七摂社の一つで、祭神は「伊佐奈美尊」です。

167日本@名無史さん2019/07/01(月) 21:00:43.24
ここはイザナミ命の「遥拝所」。

この「白山比売神社」の南西には「高越山」があり、山頂に「イザナミ」が祀られていると言われています。

168日本@名無史さん2019/07/01(月) 21:57:07.00
イザナミ命・イザナギ命の神号は海の霊物「イナサ(雄魚)」より名付けられたという説があり、イザナミ命の生前の名は「白山比売」であったという伝承があるそうです。

https://sueyasumas.exblog.jp/17016171/

169日本@名無史さん2019/07/02(火) 06:28:12.21
忌部の郷 徳島県吉野川市山川町忌部山字黒岩 

鳥居の原型 「忌部神社旧社地 真立石(上古神社鳥居)」  

邪馬台国四国説 part3 	->画像>8枚

170日本@名無史さん2019/07/02(火) 07:07:43.06
田浦遺跡(小松島市田浦町)
壺棺墓で集落範囲考察

小松島市田浦町の田浦遺跡は、勝浦川が運んできた土砂が堆積してできた場所にある。
耕作されていた土地の下から、弥生時代後期(1900年前ごろ)と平安時代前期(1200年前ごろ)の同時代の墓、奈良〜鎌倉時代の生活痕が見つかった。
田浦遺跡が長期間、環境に恵まれて集落を形成しただけでなく、墓所として利用された時代があることが分かった。
注目されるのは、弥生時代後期の「壺棺墓」が2基見つかったことだ。
壺棺は埋葬する際に骨を入れた壺のこと。
2基にはそれぞれ直径約1mの円形の土坑の底に大型の壺が横たえられていた。
壺の口は鉢を蓋にしてかぶせていたとみられる。
壺の大きさは高さ約50cm。
壺の口部分は見つからなかった。
一般的に弥生時代の壺棺墓は、集落の端に築かれることが多い。
田浦遺跡の弥生時代の集落の範囲を考える上で重要な成果が出たといえる。
今後の調査に生かしたい。(県埋蔵文化財センター主任研究員・岡田圭司)

2019年(令和元年)7月 2日 徳島新聞朝刊

171日本@名無史さん2019/07/02(火) 09:58:30.92
縄文の「朱」生産拠点 阿南市「加茂宮ノ前遺跡」

国内最大、最古級

祭祀と居住一体出土

172日本@名無史さん2019/07/02(火) 10:00:00.32
阿南市加茂町の加茂宮ノ前遺跡で、古代の祭祀などに使われた赤色顔料「水銀朱」を生産したとみられる縄文時代後期(約4千〜3千年前)の石臼や石きね300点以上や、

水銀朱の原料の辰砂原石が大量に出土した。

水銀朱に関連した遺物の出土量としては国内最多。生産拠点として国内最大、最古級だったことが明らかになった。

173日本@名無史さん2019/07/02(火) 10:25:28.70
石臼の大きいものは直径30センチ。石きねは同約10センチ。生産した水銀朱を貯める土器、表面に水銀朱を塗った土器の破片や耳飾りが多く見つかり、

関連した遺物の出土数は1、000点以上に上った。

174日本@名無史さん2019/07/02(火) 12:39:32.06
調査面積は約1万平方メートル。 祭祀に使っていたとみられる石を円形に並べた遺構14基や住居跡2基も見つかった。

縄文後期の居住域と祭祀の遺構がまとまって確認できたのは西日本で初めて。

175日本@名無史さん2019/07/02(火) 14:36:29.78
徳島県埋蔵文化財センターによると、辰砂原石は約5キロ離れた若杉山周辺から採取された可能性が高いとみられる。

土器の模様には九州の土器に類似した特徴があり、「当時から地域交流をしていたことがうかがえる」としている。

176日本@名無史さん2019/07/02(火) 19:13:52.01
県教委などは2016年度から加茂宮ノ前遺跡を調査しており、弥生時代中期末〜後期初頭(約2千年前)の層から、

鉄器や水銀朱の生産拠点とみられる集落跡を確認。

177日本@名無史さん2019/07/02(火) 19:34:53.45
今回の発見で水銀朱の生産、利用時期は約1500年以上さかのぼることが明らかになった。

178日本@名無史さん2019/07/02(火) 20:34:00.74
同志社大学文学部・水ノ江和堂(かずとも)教授(考古学)の話

「極めて重要な発見」

縄文時代の遺跡が東日本や九州に比べてかなり少ない中四国の状況を示す極めて重要な発見。

当時の水銀朱の生産、利用状況や集落構造を総合的に確認できる遺跡は他に例がなく、今後の研究につながる。

遺構を切り取って復元などしてもらいたい。

179日本@名無史さん2019/07/03(水) 07:59:59.06
「淤能碁呂島」は淡路島ではなく、吉野川中洲の粟島(善入寺島)。  

この粟島(善入寺島)も忌部の郷のひとつ。  

180日本@名無史さん2019/07/03(水) 17:50:26.82
徳島市大原町千代ヶ丸山 「 観音山古墳」は、反正天皇の御陵跡であった。

181日本@名無史さん2019/07/03(水) 17:57:12.08
元禄年間に徳川幕府から「阿波淡路右両国之内、古代之天子葬之場所有之由ニ候云々」として

阿波で古代天皇の埋葬が行われた痕跡を徳島藩に調査させている。

182日本@名無史さん2019/07/03(水) 18:15:34.06
元禄十四年四月二十四日(同日)、勝浦郡大原村千代ヶ丸の観音山古墳を徳島藩普請奉行 猪子理五郎等が掘り出した時の記録が残っている。

183日本@名無史さん2019/07/03(水) 18:22:29.91
『(元禄)同十年十一月十九日、土屋相模守殿、御留守居呼出左之書付御渡、 覺  阿波淡路右兩國之内、古代之、
天子葬之場所有之由に候、淡路國三原郡有之旨に候、場所吟味有之候䔡其所に矢奈等被申付、雑人不入込候様可被申付候(中略… )
同十四年四月廿四日、勝浦郡大原村千代ヶ丸觀音山へ、普請奉行猪子理五郎、森脇彌五兵衛罷越、石之櫃堀出し申處に、内に右左品々有之、
一、石櫃長九尺八寸、深貮尺九寸、幅三尺餘、切ふさ貮枚、むぎ合に仕、内樋有之、
一、しやれかうべ貮つ、長サあぎとまで壹尺四寸、丸サ三尺七寸廻り、兩眼の間三寸、
一、上下の齒長さ八分、左奥齒より右之奥齒まで壹尺四寸、兩方の耳幅長さ壹尺五分、
一、今一つかうべの儀は不分明
一、刀一腰長さ六尺八寸、幅貮寸五分、
一、釼二振有之内一振は長五尺五分、幅三寸五分、今一振は長壹尺五寸、幅三寸五分、
一、鉾一、長さ貮尺は丶七寸、石突八寸、
一、矢根廿五本有之、長壹尺貮寸、幅三寸、
一、からうとの内かうや貮つに書付添、
右之通 以上』

184日本@名無史さん2019/07/03(水) 18:55:42.92
>徳島商工会議所青年部では、9月22日(日)・23日(月)に
>藍場浜公園にて「第1回卑弥呼フェス」を実施します。
>当フェスにて、阿波の古代を想像し、体感してもらえるような、
>飲食・出し物の出展者を募集します。
>フェスに出展してみようという方は、ご応募お待ちしております。

185日本@名無史さん2019/07/03(水) 22:09:40.70
「古代天子葬之場所有之由の候… 」 この記述から、徳川幕府は阿波国に古代天皇陵が存在することを知っていたことになる。

186日本@名無史さん2019/07/04(木) 00:02:55.44
淳仁と土御門のこと

187日本@名無史さん2019/07/04(木) 07:34:13.70
>>186

ところが、

徳島市大原町千代ヶ丸山 「 観音山古墳」は、反正天皇の御陵跡であった。 

ちなみに、板野町の「阿王塚古墳」は亀山天皇陵。

188日本@名無史さん2019/07/04(木) 07:49:53.91
反正天皇は古事記に「御身の長(たけ)九尺ニ寸半、御歯の長さ一寸、広さニ分、上下等し斉(ととの)ひ、既に珠を貫けるが如くなりき。」 と記録されているが、

こちらの記録と千代ヶ丸 観音山古墳の埋葬者の身体サイズときちんと一致している。

徳島市は大原町千代ヶ丸。  この千代ヶ丸山 「観音山古墳」は、実は反正天皇の御陵跡であったのである。

189日本@名無史さん2019/07/04(木) 09:09:16.93
>>187
今も昔も徳島にはおかしな人がいたってこと
その2か所を幕府は認めていない

190日本@名無史さん2019/07/04(木) 10:28:12.31
>>189
>その2か所を幕府は認めていない

幕府が認めたのはどれ?

191日本@名無史さん2019/07/04(木) 10:32:37.03
土成町宮川内の奥に飛蔵山(ひそやま)という山がある。  

飛蔵山は御祭神として第二十七代 安閑天皇を奉斎する吉野神社が古くから鎮座していた。

192日本@名無史さん2019/07/04(木) 10:39:25.61
鳴門市大津町大代の「天皇神社」は、 允恭天皇の御陵跡。

http://goutara.blogspot.com/2011/03/blog-post_06.html

193日本@名無史さん2019/07/04(木) 12:44:50.47
「深曽木(ふかそぎ)の儀から考察」

194日本@名無史さん2019/07/04(木) 12:59:33.13
>>190
『徳川実紀』「常憲院殿御実紀」巻39元禄12年4月29日条を読め

195日本@名無史さん2019/07/04(木) 13:09:19.53
深曽木の儀では、童形服を着て、右手に桧扇、左手に小松と山橘を持ち、それに先立つ着袴の儀で男子は滝の意匠をあしらった和服である落滝津の御服の上に白絹の袴を着付けます。

そして、青石(あおいし)二個を踏み、南側を向いて立ち、御用掛が髪をくしですきそろえ、はさみで毛先を少し切ると、日置盤からぴょんと飛び降りるのです。

196日本@名無史さん2019/07/04(木) 13:25:41.99
これは高天原から天照大御神の孫、つまり天孫が葦原中国の支配者として降臨した様子を模した儀式がこの深曽木(ふかそぎ→みそぎ)の儀であると思われるのです。

この山橘は恐らく酢橘か柚で、共に阿波で産するものの象徴でもあり、

青い石は、阿波で採れる青石=多くの古墳等の積石に使用されているもので、これも阿波を象徴するものです。

197日本@名無史さん2019/07/04(木) 18:21:55.32
>>194
>『徳川実紀』「常憲院殿御実紀」巻39元禄12年4月29日条を読め

この『徳川実紀』「常憲院殿御実紀」巻39元禄12年4月29日条に、どうして阿波国の麻植郡や三好郡・板野郡が、唐突に登場するのだろうか?

「古代天子葬之場所有之由の候… 」 この記述から、徳川幕府は阿波国に古代天皇陵が存在することを知っていたことになる。

198日本@名無史さん2019/07/04(木) 19:03:20.22
>>197
阿波と淡路に帝陵があるはずだから調べろ

基地の多い阿波で我も我もと申し出る

199日本@名無史さん2019/07/04(木) 19:19:56.24
>>198
>基地の多い阿波で我も我もと申し出る

残念!
「古代天子葬之場所有之由の候… 」 この記述から、徳川幕府は阿波国に古代天皇陵が存在することを知っていたことになる。

200日本@名無史さん2019/07/04(木) 19:24:17.99
もしかして近世でいう古代と現代でいう古代が同じ意味だと思ってるのか?
救いようがない間抜けだな

201日本@名無史さん2019/07/04(木) 19:26:18.39
バカを晒し続ける、まさに阿波バカ

202日本@名無史さん2019/07/04(木) 19:30:08.99
>>194
>『徳川実紀』「常憲院殿御実紀」巻39元禄12年4月29日条を読め

この『徳川実紀』「常憲院殿御実紀」巻39元禄12年4月29日条に、どうして阿波国の麻植郡や三好郡・板野郡が、唐突に登場するのだろうか?

「古代天子葬之場所有之由の候… 」 この記述から、徳川幕府は阿波国に古代天皇陵が存在することを知っていたことになる。

203日本@名無史さん2019/07/04(木) 19:32:21.98
同時期に山城、大和、摂津、河内、和泉でも調べてるのに

204日本@名無史さん2019/07/04(木) 19:43:21.49
>>203
>同時期に山城、大和、摂津、河内、和泉でも調べてるのに

そりゃ、大和朝廷があったんだから、当然だろ?

ちなみに、淡路島も阿波国だから。 念のため。   @阿波

205日本@名無史さん2019/07/04(木) 19:45:10.79
讃岐もな

206日本@名無史さん2019/07/04(木) 19:46:05.46
>>204
つ山城

207日本@名無史さん2019/07/04(木) 19:47:11.32
徳川実紀はネット上で活字本が読めるのに

208日本@名無史さん2019/07/04(木) 20:06:03.77
>>207

だから畿内説は、いつも墓穴を掘るんだよ。   ハハハハハ。   @阿波

209日本@名無史さん2019/07/04(木) 20:08:20.99
>>208
読んでないんだろ?

210日本@名無史さん2019/07/04(木) 20:12:43.71
論理がないから結論を連呼するしかない
阿波バカは惨めじゃのう

211日本@名無史さん2019/07/04(木) 20:57:10.10
>>209
>読んでないんだろ?

読んでないのに、こんなことが書けるとでも?  頭、大丈夫?

この『徳川実紀』「常憲院殿御実紀」巻39元禄12年4月29日条に、どうして阿波国の麻植郡や三好郡・板野郡が、唐突に登場するのだろうか?

ちなみに、淡路島も阿波国だから。 念のため。

212日本@名無史さん2019/07/04(木) 20:58:32.32
>>210

だから畿内説は、いつも墓穴を掘るんだよ。   ハハハハハ。   @阿波

213日本@名無史さん2019/07/04(木) 21:05:29.81
徳川家は阿波風土記を持っていたんだろうな
まだ持ってるはず
なんで探そうとしないの?徳島って

214日本@名無史さん2019/07/04(木) 21:28:54.99
>>211
読んだのなら、阿波の基地たちの主張がどうなったかわかるよなwww

215日本@名無史さん2019/07/04(木) 21:36:56.67
>>214
>読んだのなら、阿波の基地たちの主張がどうなったかわかるよなwww


倭国(阿波)の主張

この『徳川実紀』「常憲院殿御実紀」巻39元禄12年4月29日条に、どうして阿波国の麻植郡や三好郡・板野郡が、唐突に登場するのだろうか?

「古代天子葬之場所有之由の候… 」 この記述から、徳川幕府は阿波国に古代天皇陵が存在することを知っていたことになる。

ちなみに、淡路島も阿波国だから。 念のため。

216日本@名無史さん2019/07/04(木) 22:13:28.35
やっぱ読んでないじゃないか

土御門と淳仁以外は却下
まあ、完全に否定はできないから保護だけはしとこうか
が幕府の結論

阿波バカの妄想は泡と消えた

217日本@名無史さん2019/07/04(木) 22:15:01.91
読んだ上で幕府は〜とか言い続けるのは真性のキチ

218日本@名無史さん2019/07/05(金) 06:45:38.54
>>216
>まあ、完全に否定はできないから保護だけはしとこうか


だから、なんで、海を隔てた辺境の「阿波国」が、いきなり登場するのか?   「火のない所に煙は立たぬ」    後は推して知るべし。  ワハハハハは   

この『徳川実紀』「常憲院殿御実紀」巻39元禄12年4月29日条に、どうして阿波国の麻植郡や三好郡・板野郡が、唐突に登場するのだろうか?

「古代天子葬之場所有之由の候… 」 この記述から、徳川幕府は阿波国に古代天皇陵が存在することを知っていたことになる。

ちなみに、淡路島も阿波国だから。 念のため。   @阿波

219日本@名無史さん2019/07/05(金) 07:45:48.08
土御門と淳仁の陵を探すため

220日本@名無史さん2019/07/05(金) 07:58:35.57
>>219

それらは、そのうちのひとつにすぎない。

「古代天子葬之場所有之由の候… 」  阿波国は特殊なところと認識していたんだね。

221日本@名無史さん2019/07/05(金) 09:12:11.62
特殊なのは阿波バカの頭の構造だな

222日本@名無史さん2019/07/05(金) 09:15:15.89
>>221

それが精一杯の抵抗かね?  哀れだねぇ。  情けないもんだねぇ。

阿波説は、逆立ち・し・て・い・て・ も、どの説にも負けない。  反論ある人は、はい、どうぞ。    

223日本@名無史さん2019/07/05(金) 09:17:47.65
阿波も幕府が探索を指示した数ある国のひとつ
阿波バカって本当にお粗末だな

224日本@名無史さん2019/07/05(金) 09:22:10.77
>>223

それが精一杯の抵抗かね?  哀れだねぇ。  情けないもんだねぇ。

畿内周辺を探索するのは、当たり前。  大和朝廷が実在していたんだから。

では、なぜ、海を隔てた、辺境の「阿波国」が、いきなり登場するのか?   「火のない所に煙は立たぬ」    後は推して知るべし。  ワハハハハは   

阿波説は、逆立ち・し・て・い・て・ も、どの説にも負けない。  反論ある人は、はい、どうぞ。    

225日本@名無史さん2019/07/05(金) 12:43:35.19
阿波バカは後亀山がいつの時代かも知らないバカ

226日本@名無史さん2019/07/05(金) 14:31:29.87
反正天皇は淡路生まれ
中国では珍と呼ばれた
珍(うず)は鳴門のこと

227日本@名無史さん2019/07/05(金) 17:11:34.32
>>225

後亀山???   なんの話?  

228日本@名無史さん2019/07/05(金) 20:55:32.55
>>227
徳川実紀を読んだらわかる

229日本@名無史さん2019/07/05(金) 21:16:38.45
>>228
南北朝時代の後亀山天皇がどうしたと?

後亀山天皇も倭国(阿波)で葬られていたのかな?  ワハハハハは   

230日本@名無史さん2019/07/05(金) 21:24:18.44
>>228

ちなみに、亀山天皇は阿波国板野郡の阿王塚古墳に葬られている。

231日本@名無史さん2019/07/05(金) 21:24:59.71
>>228

ちなみに、鎌倉時代の亀山天皇は、阿波国板野郡の阿王塚古墳に葬られている。

232日本@名無史さん2019/07/05(金) 22:33:33.47
>>229
阿波バカは
・徳川実紀を読んでいないこと
・嘘つきであること
が確定しました

233日本@名無史さん2019/07/05(金) 22:33:33.76
>>196
そして私が注目したのは、「南の方角へ飛び下りる」ということ、つまり高天原から南方へ降臨したということを意味するものではないでしょうか。

実際は高天原がどこにあったのかはわかりませんが、あくまで徳島県に高天原があったとするならば…ということで、

その場合、霊峰剣山を中心にとした1000m超級からなる剣山系の山々から南方へ下ったということになります。

https://ameblo.jp/marine816/entry-12314233650.html

234日本@名無史さん2019/07/06(土) 16:30:14.40
古事記には、天照大御神が石屋戸隠れをした時、八百萬神が集い神楽などで大神を誘い出し、

この時、手力男命が大神の手を取りて引き出したと記されている。

235日本@名無史さん2019/07/06(土) 16:33:09.88
邪馬台国四国説って結構可能性あると思っていたが
このスレを見れば見るほど間違いだと気づかされる。

236日本@名無史さん2019/07/06(土) 17:31:02.28
>>235

阿波説は、逆立ち・し・て・い・て・ も、どの説にも負けない。  反論ある人は、はい、どうぞ。   @阿波 

237日本@名無史さん2019/07/06(土) 18:25:17.62
>>234

この手力男神は「佐那県に坐す」との記述とおり佐那河内村牛木屋(古代には佐那の県または狭長村と呼ばれていた)に祭られている。

https://sueyasumas.exblog.jp/23490705/

238日本@名無史さん2019/07/06(土) 19:43:37.64
弥生・古墳時代から古代にかけて、現在徳島平野が広がる吉野川河口域は東に開ける深く広い大きな入江になっていて、

大陸・朝鮮半島から北部九州を経て、畿内・大和へと続く「和鉄の道」の東四国の玄関口として大いに繁栄してゆく。

239日本@名無史さん2019/07/06(土) 19:54:48.56
橿原考古学か纏向かしらんが

地方公務員上がりが騒ぐ畿内説

石野、寺澤・・・私利私欲のアホばかり

240日本@名無史さん2019/07/06(土) 20:29:04.39
弥生時代の中期後半から後期初頭にかけて、 吉野川下流域北岸の阿讃山脈の山縁や 対する吉野川南岸 四国山地の東端に位置する眉山・気 延山の麓  

また、吉野川に流れ込む鮎食川の扇状地には、 それぞれ、鉄器や鉄器関連遺物が出土する拠点集落が形成され、

それらの地域が流通・交易拠点として 周辺地域を巻き込みながら次第に大きくなる。

241日本@名無史さん2019/07/06(土) 20:34:04.01
つながりないだろ

242日本@名無史さん2019/07/06(土) 20:34:32.70
つながりが見つからないんだろどおせ

243日本@名無史さん2019/07/06(土) 20:36:21.94
そんなんから発展した技術を持っていたならもっと昔から遺跡でてるよ

244日本@名無史さん2019/07/06(土) 20:36:34.30
>>241
>つながりないだろ

気後れせずに、しっかり言うべきは言おう!   @阿波

245日本@名無史さん2019/07/06(土) 20:43:06.80
>>243
>そんなんから発展した技術を持っていたならもっと昔から遺跡でてるよ

君も初心者だね?
徳島は遺跡発掘が遅れているからね。  
でも今は、遅ればせながら、他説を凌駕する、倭国(阿波)の圧倒的考古資料が出土しているよ。

「阿波の国の概説」
http://www.infokkkna.com/ironroad/2010htm/iron6/10iron04gaisetsu01.pdf

他説を凌駕する、倭国(阿波)の圧倒的考古資料   @阿波

246日本@名無史さん2019/07/06(土) 20:50:40.08
吉野川北岸 鉄器関連拠点集落 : 光勝院寺内遺跡・カネガ谷遺跡など     

吉野川南岸 鉄器関連拠点集落 : 矢野遺跡・名東遺跡・高川原遺跡など

247日本@名無史さん2019/07/06(土) 21:14:34.13
それと共に、これらの地を治める有力豪族も生まれ、次第にひとつの国(阿波国)としてまとまってゆく。

248日本@名無史さん2019/07/06(土) 22:20:24.65
「蓮華谷古墳群」

当遺跡は、平成2年に四国縦貫自動車道建設に伴い発掘調査された板野郡板野町犬伏所在の古墳群である。

調査により古墳時代前期(3世紀後半〜4世紀)の粘土槨を持つ円墳であることが判明し、本県の粘土槨の始原を考える上で重要な古墳である。

249日本@名無史さん2019/07/06(土) 22:45:20.52
副葬品には銅鏡1、鉄製武器工具(鉄刀1、鉄剣1、鉄斧1、鉄鉇1)、装身具(翡翠勾玉1、碧玉管玉11)、土師器壺1があり、徳島県立埋蔵文化財総合センターで展示されている。

250日本@名無史さん2019/07/07(日) 21:31:47.50
>>249

前期古墳の出土資料は全国的にみても数少なく、特に銅鏡は仿製鏡の古墳への副葬開始時期を考える上で重要な資料である。

「蓮華谷古墳群(U)二号墳出土品」
http://www.geocities.jp/yamatai4/oasa/renge.html

251日本@名無史さん2019/07/07(日) 21:34:57.37
ショボい村レベルの話やな

252日本@名無史さん2019/07/07(日) 21:36:43.15
前期古墳の出土資料は全国的にみても数少なく、特に銅鏡は仿製鏡の古墳への副葬開始時期を考える上で重要な資料である。

「蓮華谷古墳群(U)二号墳出土品」
https://sitereports.nabunken.go.jp/ja/14121

253日本@名無史さん2019/07/07(日) 21:49:45.23
「大代古墳」は、全長約54mの前方後円墳。

254日本@名無史さん2019/07/07(日) 21:51:35.65
後円部南北径31m・東西径45m  前方部長23m、くびれ部幅18m、前方部前面幅21m、墳高は後円部6.7m、前方部3.3m

前方部、後円部とも2段築成 葺石はあるが、全体ではなく、裾部を列石状に区画している程度。

255日本@名無史さん2019/07/07(日) 21:54:23.93
円筒埴輪、朝顔形埴輪、家形埴輪、盾形埴輪の破片が出土。

第1段テラス上や前方部墳頂に円筒埴輪列があり、後円部墳頂に形象埴輪が並んでいたと考えられている。

256日本@名無史さん2019/07/07(日) 21:58:22.71
後円部頂に南北方向に南北約7.4m、東西約4.5m残存深さ約80cmの墓壙の中に、内法で長軸3.7m、北小口幅1.1m、南小口幅1.0mの竪穴式石室があり、その中に刳抜式石棺がある。

石棺内から、滑石製臼玉28・緑色凝灰岩製管玉1が出土した。

257日本@名無史さん2019/07/07(日) 21:59:16.20
原位置から移動した遺物は、鏡片、装飾品(管玉・臼玉) 武器(鉄鏃・銅鏃・鉄剣片・鉄刀片・鉄鉾片)武具(短甲片) 農工具(鋤先・鉄鎌) 工具(鉄斧・刀子・ヤリガンナ・鉄鑿)など。

258日本@名無史さん2019/07/07(日) 22:01:57.40
石棺の石材は、さぬき市津田町火山産の白色凝灰岩。

4世紀末の築造と推定されている。

さぬき市津田町「岩崎山4号墳」より少し新しい古墳とみられている。

https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%A4%A7%E4%BB%A3%E5%8F%A4%E5%A2%B3

259日本@名無史さん2019/07/08(月) 11:33:24.40
「銅鐸」は、全国で約400個出土していて、徳島県はその約1割を占める42個(29遺跡)が出土しています!!

古代史上、重要視されていない徳島県で、なぜこれほど多数出土するのでしょうか??

https://sueyasumas.exblog.jp/9415763/

260日本@名無史さん2019/07/08(月) 15:48:22.12
『阿波風土記を探せ』ってテレビ番組やれば面白そう


lud20190708234344
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